温床になっているんじゃないかと

ふかふかの布団の上で、大好きなラジオを流して笑い声を聴いているとき、自分の心に、さみしさが冷たい氷が溶けて肌をつたっていくみたいにあらわれる時があって、一気に感覚の全てがその一筋に向く。

 

ラジオは、たくさん手がかかっていて、人の労力が積み重なってやっとできている。もちろんラジオに限らず、テレビでも舞台でもそうだけど、ひとつの番組や作品をやり遂げるにあたって、本当にたくさん、数え切れないくらいの人の手がかかっている。

 

だんだん大人になると、そこにはどんな手が積み重なっているかが何となくわかるようになる。1番上で大きく寝転がってる手もあれば、重さに耐えられず、壊死寸前の手もあったりする。

こうして手さえ分かってしまえば、そこからつながる腕、胴体、頭、姿かたち、そしてその姿になるまでの過程が、見えずとも「ある」というのが、わかってくる。そこまで考えなくていいと思うけど、「ある」ことを、見えなかったってだけで「ない」とすることは私にとって難しい。事実はいつも気づかれるとは限らないと思っているからだ。

 

たぶんその手のどれかが、存在を解らせるように私の心をひっかいている。氷が溶けたみたいだと思った冷たさの正体は水じゃなくて、傷から滲んだ血なんじゃないか。どんなに幸せだってひっかき傷から「さみしい」と呟く細菌が侵入してきて健康を脅かされる。そしてそのさみしさに対する免疫はいつまでもできない。

ラジオが終わった時に、突き飛ばされるみたいにひとりだと感じるあの感覚は、きっとラジオを聴いてる間に、誰かの手によってつけられた傷から入ったさみしさが体の中で繁殖して、終わった瞬間に体の中で一気に小爆発でも起こしているのだろう。

いつの間にか私が眠っていて、ラジオもとっくに終わっていて、つけっぱなしのラジオから知らないおじさんが喋ってるのを、なんの名残惜しさもなくブチって切ったときは、さみしさに対抗できたみたいだった。結局さみしさは繁殖しているのかもしれないけど、朝はなんの感覚も冴えてないからなにもわからないのだ。

 

でも最近は夜遅くまで起きているのが得意だから、ラジオ中に寝てしまうなんてことは起こらなくて、さみしさへの対抗はできていない。もうわたしはオススメのさみしさ繁殖スポットにでもなっているんじゃないか。

さみしさが大繁殖した状態で、「ばいばいしたいものは?」という質問に「東京」と答える好きなアイドルの声が聞こえて、また一筋さみしさが伝う。

アイドルもまた、心を引っかく人のひとりであること。この時間の自分ができる対抗は涙を流すことしかないのが恨めしい。冴えない朝の自分を待とうとしても、木曜の夜は存外長い。

つまづく価値観

次から次に火種が生まれてずっと誰かが喧嘩している。その喧嘩の中心はアイドルに対する気持ちであることを毎日しんどく思っている。誰かの意見がぶつかり合い、その意見の中で、どれが正しいのかとか、正義なのかとかを考えること・誰かが考えているってことが、本能的に苦手みたいだ。
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私はアイドルがどんな人かってのをけっこう重視するけど、アイドルの気持ちや人格の、本当に本当の部分ってのを知ったり、考えるのが苦手だし、それを声高に発信する人のことも本当に苦手だ。アイドルとして見せている部分が、世の中やアイドルを見てる人の「本当」として蔓延っていくべきだと思うし、どれだけ知りたいと思ってもそこを「本当」だとして捉えるべきなんだと思っている。
それが正しいアイドルの人格の作られ方であり、見方であると思っていて、本当の部分なんてのは、わざわざ見なくて良い部分なはずだ。
ただ、今はいろんな人の意見が飛び交うし、意図せずに入ってきてしまう情報ってのは絶対にあって、だからこそ私は、私が見ているアイドルのことを守るのに必死だった。

私の中でフィクションを作ってしまっているのはわかってるけど、それで満足しているだけじゃ本当の好きじゃないよ、みたいな、もっと本質を知りたくなるのが当たり前だ、みたいな、そんな気持ちが私には理解ができない。だけど聞こえてくるから、耳を塞いで逃げているみたいにして、私の中のアイドルを守ってアイドルを好きでいる。

誰かがつくった火種に、あれやこれやと燃料が注がれてもっと大きくなってしまうと火が大きくなって、本当に逃げられないってときが生まれる。
私の好きなものの話で誰かが意見をぶつけ合って戦っているのを見ると、小さいときによく、火事とか、戦争とかで家が焼かれるって夢を見て、そのときに落ち着く場所が焼け落ちてなくなることをひどく恐れていたみたいに、自分のことを守ってくれる場所が灰になってしまうのでは、という恐れが自分を満たしてくる。
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わたしはアイドルが、自分の心を守ってくれてるって本気で思っている。そのアイドルが、フィクションであり、私の作った、思い込みの中での「アイドル」であることも分かっている。でもそれでよかった。

結局は他人だ。家族だろうが友達だろうが、私の核のそのまた奥の部分まで私を守れる人は私しかいないのだから、私が作ったアイドルで私を守ること、それは私が私を守ることで、絶対に信じられるものになってくれている。
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価値観が揃わないのはもうどうしようも無いことと理解してるはずだけど、価値観のぶつけ合いで、私が持ってる大切に作ったアイドルって概念がどんどん勝手に間違いになっていくような毎日で、そんなに嫌なら見なければいい、それはそうだけど、見なかったのならそれは起きていないことだ、と出来るような性格でもないから、喧嘩がなくなりますように、本当に全部を諦めることができるようになりますようにって心から祈ってしまっている。
誰かの気持ちに自分の価値観が揺らがないように、そして自分の価値観で誰かを動かせるだなんて思わないようにみんなが諦めればいいし、それよりも先に自分がそうなれればいいって話なんだけど、大切なものを誰かにも大切にしてもらいたいって、きっと根底でそう思っているからうまくいかない。だからずっと言い合いが起こっている。

みんなが諦めること自体も諦めればいいだけなのに、単純になれなくて困って行き止まりなのである。

メガチャーチとじんとについて

「イン・ザ・メガチャーチ」が本屋大賞受賞してましたね。ケンティーの有明に行かないと決めた日、何かしら有明に行く代わりに別の予定を入れたくて買ったのがこれです。やっぱり本読むの苦手だなあとか思って、結局読み終わったのは2月の末とか。それからずっとこの本の内容に足引っ張られてる感じがして、めちゃくちゃ面白かったけど読まなきゃ良かったなど毎日思っている。足は引っ張られるし、今までずっと無視していた違和感、気付かないふりをしていたことに気づいていく感覚が結構しんどかった。

作中に、わたし自身がオタク行為をしている中で引っかかっていた部分をフル無視して、とにかく突き進んで破滅するようなオタク行為を始めていく女の子がいるんですが、この子を見て、こうなるために必要なのはお金でも時間でもなくて、生まれたときに備わってる機能として他人に狂う機能がとんでもなく長けているかどうかで、もう努力じゃなくて才能の部分でそれができてるのだと思った。⁡破滅的なオタク行為をしてる人は何人か見たことがあるけど、自分がそうなれないのはもう生まれた時に決まっているんだな。そういう、とことん没入できる人を見て、自分にはできないことだから羨ましいと思ったりすることもあるけど、きっと他に長けてる部分を設けてもらったと思って諦める気になった。


で、私はこの本を読み終わった時点でもそもそも大きめな余韻に襲われたんだけど、これ吉田さんも読んでるって聞いた後から、さっきの余韻は余震だったとでも言われたようなまた別の感覚になってずっとなんとも言えない気持ちでいる。なんでこれ読んでることを言ったんかな……蓋開ければ「廃棄前提でCDを大量に買わせる」だとか「信徒を育てる」だとか「自分を使い切らせてあげている」だとか書いてあるし。

実際、アイドルビジネスなんてそうなんだけど、なるべくオブラートに、隠すように、なんなら仕組んだと思わせず自発的に消費が起こるように仕向けている側にいて、そのいちばん外側を担っている人がなんでこれを読んだとか言うんだろう。「自分みたいな仕事の人がこれを読んでるのもどうかと思うけど」って言ってたけど本当にそうだよ、私は読み終わった後にこれを読んでたってことを知って、そのとき本の内容を思い出してゾワゾワせざるを得なかった。みんな当たり前に、言ってしまえば搾取ビジネスとわかってやってるんだろうけど、わかってやってるのを解らせるのはどういう心理なのかひとつもわからんよ。

そう考えると慶とかは自分が好きな曲だとか読んだ本とかをなかなかはっきり教えてくれないおかげで、変に混乱することってないなと思う。自分で決めてフィクションであろうとする気概を感じる。

吉田さんは、ノンフィクションでアイドルしすぎていて、現実を生きてる人が異世界の存在とも言えるアイドルをすることに旨味を感じるファン層にはすごく向いてるアイドルではある。

現実とはかけ離れた場所にいて、あんなキラキラ衣装を着て馬鹿みたいに売れてんのに、生で見た時に、同じ地面の上歩いてる気がするって思ったのはそういう自己開示の積み重ねがあるから感じたものだったんだな。でもそういうアイドルってそれこそ作中で出てくる信徒気質のファンたちにすごく刺さるからね。同じ世界で生きてないはずなのに同じような本を読んだり音楽を聞いて育ってた、みたいな、闇の中で誰かと手が繋がれた、みたいな気持ちになった時、この人のことわかる気がするとか思っちゃうんだよ。信徒気質は拡大解釈が得意なのでね……

み!なんか、結構アイドルするために生まれてきましたと言わんばかりのメンバーだらけなのに、1人だけ異質だから余計にオタクが寄ってくるよね…と、寄ってった人が申しております。

作中に出てくるアイドルの垣花道哉とアイドルの性質は違っても、寄せ集めるオタクの種類はほとんど同じような人で、垣花道哉と重なる部分が多すぎる人がこれ読んでるの、事実としてあるのが今もちょっと嫌だし、それのせいでガッと熱中しきれていない。無我夢中な状態にならず、その手前の、楽しい!のレベルでお金だけ使うのは、イコール大好きって式が自分の中で成り立たないので、じんとのことはトレカ出てきたら嬉しいお兄さんくらいに思ってる。たぶんこれ読まなきゃ、読んでるの知らなければ、全然大好き〜とか言ってたと思うから、好きな本だけど読まなきゃ良かったかもな1位でもありました。

 

(2026/4/10に書き終え、2026/5/8に公開)

好きな人と話せました

久しぶりに読んだ本には、自分が挟んだしおりがそのまま時を止めていた。その本を開いたとき、時間を進めてしまったと焦る。止まることのない時間が止まっていた聖域。そこを自分の手で崩してしまったような気すらして、なんだか切なくなる。元に戻しても、元に戻したのは今日で、どう頑張っても最終更新日は今日になるから意味が無い。けど読みたいから開かないと。栞を挟んでいなければ時間が止まっていたことも、時間を動かしてしまったことにも、気づかなかったのだろうか。

昔、まだ小学生だったときにすごくその感覚があって、初めて星野源のライブに行った次の日、昨日の自分がそのままにした道具箱の中身とか、ロッカーの体育着とかを動かすのが嫌だった。時間が止まってほしいって気持ちの現れだったんだと思うけど、今日の自分が昨日を上書きしていくみたい、きれいに描けた絵を上から真っ黒に塗りつぶす作業をしているみたいって思っていて、学校の中で普通に過ごしながら、ハサミとか、本棚の本とかも、全部動かすたびに昨日のことが薄れていく気がしてつらかった。動くことができない学校の校舎は昨日のままで居てくれるから大丈夫。と自分に言い聞かせることで、気持ちを安定させた。

そのくらい、昨日源さんに会えた事実を大事にする自分がいたってことは、自分の中にとても大きな愛情と、期待があったんだなあと思う。あのときはもう11年くらい前になるけれど、源さんの歌を生で聞けるってことが本当に嬉しくて、チケットが嘘みたいな現象を起こしてくれる、魔法の紙のように見えていた。実際ライブをみている時はずっと、嘘みたいだって思っていた気がするな。今ステージで歌っている一人の人間から出た言葉や、この人が浮かべたメロディーが私の支えになっている。それはわたしにとって、どんな物語よりも大きな奇跡に思えた。こんな気持ちになることはすごく珍しくて、大切なことかもしれないって、幼心でもそれは理解していて、胸の中に見たもの全てを閉じ込める気で源さんを見つめていた。

この間大阪でM!LKの特典会があって、1枚だけの特典券を使うために大阪に出向いた。
大人になってから、けっこう好き勝手に色んなライブに行くことが多くなっていたから、小学生のときみたいに、ライブに大きな期待を持って「ものすごく楽しみ!」とわくわくすることが減っていた。もうそれは私も、演者も何も悪くない。繰り返して何回か起こることには慣れが生じるものだし。
でも握手会となると話は違くなってきて、ただ観に行くとは話が違う。好きだと思った人と面と向かって話す状況においては何も経験値がない。私は今まで誰かと握手や写真を撮ったりすることができる場所に出向いたことなんてなかったし、大人になってから、なにか初めてのことをするってことがそもそも久しぶりで、心臓が止まるか、握手できるか、どっちが先かを競ってるような状態だった。

それがあってから1週間くらい、なんだか仕事もばたばたしていたし、家に帰っては疲れてすぐ眠ってしまっていたからなかなか本を開く時間を取れなかったのだけど、ふと、読もうと思い立って開いた本からしおり代わりのトレカが出てきたとき、小学生の時に感じていた「時間を進めてしまった」って気持ちがふわっと蘇ったのだった。

握手自体はすごく短い時間だった。でも、この人がいままでものすごく長い時間踊って、歌って、言葉にしてきたものが巡り巡って私のところに届いて、素敵だと思えたこと、会えたことは、まっすぐ奇跡って思っていい。と、そのときにすごく思えた。

やっぱり大人になると、だんだん、「これは奇跡!」と思っても、やっぱり違うんじゃないかと思ったり、奇跡だと思うのが少し恥ずかしくなったりするけど、本当に奇跡だって自分で信じられたとき、そんな気持ちはぜんぶ飛び越えてくる。
小学生の私には、奇跡だって思いがなんの障害物もなく飛び込んできて、全部の「奇跡だ」と思ったことは、自分にとってまっすぐ奇跡だった。この間、そんな自分が久しぶりに居てくれたことが、本当にうれしい。

きっとライブと同じで、こんなに緊張した握手だっていつかは慣れて、自分を懐かしく思うようになってしまう。それはもう知っているし決まっている。きっとこれから握手する機会があったとしても、そのあとに本のしおりを動かしたって、全然大丈夫になるに違いない。だけど、だからこそ、この間のことをとても大切に思っている。


開いた本から落ちたトレカは彼のトレカだった。あのときの私が感じた気持ちをまた思い出させてくれたことに、心から感謝している。
好きだって思う人と握手したのは初めてだったから、この世界で好きな人がちゃんと生きてるってことを肌で感じられたことをふと思い出すと、自分の心をぐっと大きい手で支えてくれるような気がしてくる。生きてるって大きいなあ。長生きしてくださいって伝えられて本当によかった。嬉しかった。あなたと握手できた奇跡を過ごせて、幸せです。

未遂

君がラジオで流そうとした歌手の名前。私は君が発したその人の歌を幾度となく聴いていたことがあった。君と好きだと思う歌手が同じだとしたら、それはもう両思いよりも難しい場所に居られるような気がしてしまって、君がその名前を言ってから、心臓の音がいつもより高い音で鳴っている。

そういえば、私が昔から、と言っても私が生きてるのは20年と少しだから、昔と言っても手の届く昔なのだけれど、その頃に好きだと思っていて読んでいた本を君も読んでいたと最近知った。今は実家の本棚にあるけど、そこのラインナップからは知ってる限りで2冊。あともう1冊、最近読んだ本も君が読んでいたと知った。私はあんまり本を沢山読む方じゃない。どちらかと言うと短歌とか詩とか、短い文章を読むのが好きだったし、長い文章は読むのが苦手だったから、本棚には限られた数の本しか無かったのに。

たくさんの文章を読んでいる人と自分のを見比べると、経験値が足りないなあと思う。たまに、「長文書けて凄いわ」と言われたりするけれど、実際のところはそんなことない。どうしても言いたいことが伝わっていないような気がして、気が付けばあっという間に文字数が増えてしまっていたというだけだった。

だから今も、「君と同じ歌手が好きなことと、君と同じ本を読んでいたことに気づいて、ドキドキした」、というのを伝えるためだけにもうこんなに書いてしまってる。こんなにいらないよ!ドキドキした!嬉しい!それだけでいいのに。
でもそれだけだとこれを読んでくれているあなたに、どんなドキドキかは伝わらないし、まあ別に伝わらなくたって私が損するわけでもあなたが得する訳でもないから伝わらなくたっていいのに、それはいけないことだって思う。そう思うのはきっと、この気持ちを大切にしたいと思っているからだ。誰かに見せるなら、「壊さないようにしなきゃ」と思ってもらえないと見せたくないこの気持ち。

わたしにとって、同じ曲を聞いていただとか同じ本を読んでいただとかは結構重要だった。
私は、君が流そうとした歌手のいちばん好きな曲を聞くと、どうしても涙が出る。とはいえずっと新曲を首を長くして待っているようなファンではなくて、ただ聴くのが好きだってだけだから、まだ知らない曲もたくさんある。だから昨日ラジオが終わってから、その歌手の曲をずっと聴いていて、ずっと泣いてた。それは嬉し涙でも悲し涙でもなかったような、逆にどちらでもあったような気もする。君にもこの言葉が響いていたのかもしれないと思うと、いま自分が寄りかかって、背中にぴったりとくっついた壁が、君の背中だった、みたいな感覚になって、それで涙が出た。近くにいないはずの君が、同じ言葉に触れていたかもしれないだけで、体重や背中を預けていた相手みたいに思えて、君の体温すらもわかる気すらする。

君みたいな、いつの間にやら近くにいたと錯覚させる温もりをいろんな人に分け与えることができる人のことが実は少しだけ怖い。その温もりは、触ってもいないのに手の感覚として結構長く残ってくる。君みたいな人の温もりはしつこい。君はそんなつもりないと思うけれど、君みたいな人が残すのは傷より深い別の、刺青みたいなものだ。だから君に惹かれているのは認めるけど、好きだとは未だに躊躇って言えない。

君と読んでいる本が同じだと気付いたときと、君と同じ歌手を聞いていたことを知ったとき、私の気持ちは、もうよくわからなくて、やめて!と叫んでいた。君の心を読んでいたみたいな気持ちになるし、君に心を読まれているような気持ちにもなる。そんな気持ちはどこに着地させればいいのかわからない。
本を開いて寄りかかった壁は普通に、本当に壁でいいのに、君と背中合わせで、同じ本を読んでいるわたしがいる。そんなのはとんでもないことだ。君みたいな人を好きになったら大変。やめてほしい。それでも、怖いもの見たさに近い好奇心で君の好きなものを知ろうとして、君とお揃いの本を読み返している。この本の好きなフレーズか、君と好きな曲や、好きな歌詞が重なったら、もうあきらめる。今はまだ、無駄でも意地を張らせてほしい。

 

(ps.もうあきらめてます)

見える温度

今年に入ってから、視界を黒い点が邪魔をする。シャワーを浴びているとき、真っ白な浴室の壁に動く黒い点があり、追いかけると無くなる。お湯を浴びて、目を閉じて暗闇、また目を開けると黒い点がいる。こいつのことを飛蚊症と呼ぶのは知っていた。この症状を皮切りに病状が進行し、失明するというドラマをかなり前に見た事があったからだ。

目が資本の仕事をしているので、目が見えなくなってしまっては困る。駅前の眼科で検査を受けた。
散眼薬を目に入れられる。
「何時間かは回りが明るく見えるから、自転車とか自動車は運転しないでね。」
何も不便はなかった。私はそもそも自分の手で車輪が着いている乗り物を動かすことをしない。歩いているときでさえ、前から来る人とぶつかりそうになったり、隣を歩いてる友人とも距離感が掴めず肩を掠めたり、物が多い空間に居ると必ず何かを落としたり、倒したりしてしまう私が、2本の腕だけで私では無い脚を動かせるわけがないと判断している。

飛蚊症は無害なものだった。「眼球の内側には思ったよりゴミがあるんですよ。」それが見えているだけだ、と言うけど、いや眼球の内側にゴミがある方が不安だろう。それは、いいんだ。いいんですね。いいって言うなら、いいのか。
納得させて外を出ると、街並みが異常に光っていた。全ての建物や木々が身体から光を出しているようで、とにかく燦然としていた。
歩けない。ぶつかる。前にいる人をどう避けたらいいか考えている間に人が来る。私の足が、信頼のない私の腕に動かされているようだった。

特段薬などは処方されず、そのままで大丈夫だと。大丈夫なのかよ。2000円くらいを受付で払う。さっきのおじいちゃんは300円くらいしか払っていなかった。優遇されていていいな。優しくされているなあ世界に。政治に。政治のことを話したりすると怪訝に思われるからあまり話さないけど、政治がおかしな事になっているのは把握している。私があのおじいちゃんと同じくらいの年齢になった頃、私はやっと優しくしてもらえるのだろうか。それとももっと厳しくされるのだろうか。本当は500年生きて、自担も500年生きてもらって、ありえない古参になりたいなとか思う。そのくらい生きるモチベーションはあるけど、歩くのがやっとになっても、歩けていた頃と同じくらいの待遇だったら、どの自分も報われないじゃないかと思ってしまいそうなんだ。私は私が普通に呼吸して生きているだけで幸せになるべきだと思っているから、幸せから少しだけでも遠ざけられるのは、まったく許せないのであった。

お風呂場の白い壁、職場の白い壁、部屋の白い壁、スマホでXを見ていても電子書籍を読んでいても、黒い点が現れる。現れない時もあるけど、結構な確率で、居る。妖精でもないし悪魔でもなさそうで。ああこいつ、本当にただのゴミなんだ。いつ眼球の内側に入ったんだきみは。
戸塚祥太のブログを読んでいる時は、グレーの壁紙に同化するからあまり黒い点は気にならない。快適で、これだけでも私は「優しくされた」と思ってしまう。優しさへの飢えを感じる。周りの人々はみんな優しいというのに、なぜかずっと冷たい場所に居るような気がする。たぶん世間のせいだけど、世間のせいにしたい気持ちがちょっと強すぎるだけな気もする。太陽の黒点はその部分だけ温度が低いから黒く見えるんだって聞けば、私の見えている黒い点は冷たさの象徴とも取れるように思えた。
もっと優しさに敏感になりたい。暖かい場所と自覚して生きたい。ここが暖かかったのだと気づけるのは、ここが冷え切った時、なんてのは悲しいから。

きみの夢を見ていた

引っ越してくる前は、都内まで2時間半かかる場所に住んでいた。2時間半の特別な帰り道。行きよりも帰りのほうが眠くなくて、止まらない指先に言葉を乗せながら線路の音を聞くことがたまらなく好きだった。
近くも、遠すぎもしない私の家。そこに帰るまで、メモを見ながら舞台のこと、ライブのことを思い出す。煌めいていた時間のことはすぐに忘れてしまうから。

引っ越してきてからは自宅に着くまでの時間があまりにも短く、感想を書き留める時間を稼ぐために寄り道をして帰るようになった。だけど、どうやら私には線路の音が必要だったようで、あまり指先は動かなかった。
だから舞台が大阪と豊橋、東京で行われることが決まり、久しぶりに2時間以上かかる電車の旅することになったときは本当に本当に嬉しい気持ちで胸がいっぱいだった。

この舞台が始まる直前、不穏なメールが届いた。センターが似合うアイドルがアイドルを辞める、そんな報せだった。あまりにも突然の発表で、それからタイムラインは重い空気が漂うようになった。文字から感じる不安の色は今も拭われていない。

「東京は思い出が多すぎて行けない」
会場に向かう新幹線の中で、そのアイドルが好きな人が呟いていたことを思い出す。
ライブや舞台の会場は、会場だけでなくその付近、道中の全てに思い出が付帯してくる。2時間半の道中が好きだったのは、この時間すら思い出にしてくれるようなライブや舞台を見せてもらったという嬉しい事実があるからだった。そうでなければ、2時間半電車に乗っているのはしんどいだけだ。

今回の舞台は、大阪公演に自担である阿達慶さんのお誕生日当日の公演があった。
本編が終わり、主演から「今日はお誕生日の人がいます」と紹介してもらった阿達慶さんは、19歳の抱負を教えてくれた。

「夢を沢山見てもらえる人になります」
「もっと大きくなります」

その公演終わりに更新されたブログでも「あなたが見たい僕の夢をたくさん描いてほしい」と書いてくれていた。
その言葉が本当に嬉しくて、隣で見ていた同担と無意識のうちに抱きしめあっていた。夢みたいなことを言って欲しい訳でもないし、無理やりな希望が欲しい訳でもないけれど、いま1番聞きたかった言葉だと思った。

1人のアイドルが辞める。それは多くの人に絶望感を植え付けた。好きなアイドルに夢を見ることを諦めようとする人が増え、悲しみが怒りに変わっていく過程を嫌というほど見かけた。「夢がない」と話されることも多くなった。
そんな中でも舞台やブログで伝えてくれたのは、まるでアスファルトに咲いた花のように、強い意思のある言葉だった。

どの土地も、どのステージも、阿達慶さんが夢を見て、私が阿達慶さんの夢を見られる場所であってほしい。あなたが夢を見続けるから、私も夢を見続けられるのだ。なんとなく夢を見ることが難しくなってしまったように感じるここ最近だけど、大好きなアイドルは「夢を描いて」と言ってくれた。今はそれだけが事実だから、思う存分夢を描きたい。

新幹線で、ブログを読みながら泣いた。東京までの約2時間半、疲れているはずなのに眠れない帰り道で、数え切れない夢を見た。