ふかふかの布団の上で、大好きなラジオを流して笑い声を聴いているとき、自分の心に、さみしさが冷たい氷が溶けて肌をつたっていくみたいにあらわれる時があって、一気に感覚の全てがその一筋に向く。
ラジオは、たくさん手がかかっていて、人の労力が積み重なってやっとできている。もちろんラジオに限らず、テレビでも舞台でもそうだけど、ひとつの番組や作品をやり遂げるにあたって、本当にたくさん、数え切れないくらいの人の手がかかっている。
だんだん大人になると、そこにはどんな手が積み重なっているかが何となくわかるようになる。1番上で大きく寝転がってる手もあれば、重さに耐えられず、壊死寸前の手もあったりする。
こうして手さえ分かってしまえば、そこからつながる腕、胴体、頭、姿かたち、そしてその姿になるまでの過程が、見えずとも「ある」というのが、わかってくる。そこまで考えなくていいと思うけど、「ある」ことを、見えなかったってだけで「ない」とすることは私にとって難しい。事実はいつも気づかれるとは限らないと思っているからだ。
たぶんその手のどれかが、存在を解らせるように私の心をひっかいている。氷が溶けたみたいだと思った冷たさの正体は水じゃなくて、傷から滲んだ血なんじゃないか。どんなに幸せだってひっかき傷から「さみしい」と呟く細菌が侵入してきて健康を脅かされる。そしてそのさみしさに対する免疫はいつまでもできない。
ラジオが終わった時に、突き飛ばされるみたいにひとりだと感じるあの感覚は、きっとラジオを聴いてる間に、誰かの手によってつけられた傷から入ったさみしさが体の中で繁殖して、終わった瞬間に体の中で一気に小爆発でも起こしているのだろう。
いつの間にか私が眠っていて、ラジオもとっくに終わっていて、つけっぱなしのラジオから知らないおじさんが喋ってるのを、なんの名残惜しさもなくブチって切ったときは、さみしさに対抗できたみたいだった。結局さみしさは繁殖しているのかもしれないけど、朝はなんの感覚も冴えてないからなにもわからないのだ。
でも最近は夜遅くまで起きているのが得意だから、ラジオ中に寝てしまうなんてことは起こらなくて、さみしさへの対抗はできていない。もうわたしはオススメのさみしさ繁殖スポットにでもなっているんじゃないか。
さみしさが大繁殖した状態で、「ばいばいしたいものは?」という質問に「東京」と答える好きなアイドルの声が聞こえて、また一筋さみしさが伝う。
アイドルもまた、心を引っかく人のひとりであること。この時間の自分ができる対抗は涙を流すことしかないのが恨めしい。冴えない朝の自分を待とうとしても、木曜の夜は存外長い。