3/22~3/26

黒田育世再演譚vol.2 「波と暮らして」「ラストパイ」

326日、見事に踊り切り、会場が揺れる程の拍手の中幕を閉じた。

「ラストパイ」のソリストを務めた織山尚大1ファンとして見た光景をただただ文章にしました。人に読ませることをひとつも考えずに書いてしまいました。備忘録のようなものです。

 

 

暗闇の中に三拍子の重低音が響いて、まるで雷が落ちた時のような光の中姿を現したソリストは、既に踊っている。停止した状態から、「今から踊りますよ」と踊り始めるのではなく、もう何小節か踊っている状態で、ダンスの始まりが曖昧。曖昧にすることで、この踊りの無情さが増すように感じた。始まりもなければ、終わりもない。ソリストはひたすら踊り続けなければならない、囚われの身 だと直感的に感じた。

ただただ、ひたすら ひたすらに 祈りなのか呪いなのか分からない、意味のある踊りなのかもわからない踊りを続ける。理由があろうが無かろうが、もう踊るしかない。拷問のようだった。

 

上裸で、アイドルの衣装とはかけ離れた、ボロボロにすら見えてしまう布の重なりにオレンジ色が差し込んで、共に踊っている。自由に動けるオレンジ色の紐が肌に纏わりつくと、まるで血管が浮き出ているようで、この人に血が通っている実感が湧く。 ゆっくりとした動きで、客席を睨むソリスト。顔を見ると、私の好きなアイドルの顔をしていた。それなのに、好きなアイドルは舞台の上のどこにも居ない。そこに居るのは、確実に その人 なのに。自分の中にいるその人と、今目の前で踊っている人とはひとつもリンクし合ってくれない。

 

踊りを終えて、カーテンコールでは「織山尚大」として姿を現す。

体格のいいダンサーに両脇を抱えられ、片足を引きずり、ふらふらとしながら意識を手放さないよう、必死に客席にお辞儀をする彼の姿。

その姿を見た瞬間、心の奥底から自分の体の表面までが真っ白に貫かれる感覚が襲った。拍手に全く力が入らず、スタンディングオベーションにも遅れ、着ている服の感触すら分からなくなっていた。

 

今まで目の前で行われていた踊り、すべて、この人がやっていた。この人が。

 

その実感がひたすらに怖かった。怖さを通り越して、気持ち悪ささえ感じた。

 

初めて見た日の帰り道、衝撃と圧倒で怖さに襲われ「こんなはずじゃなかった」と涙を流すしかできなかった。次の日のチケットを見つめては先を案じた。もっと力を得られるものだと思っていたのに、最初の感想はずっと「気持ちが悪い」「怖い」ばかりで、自分の受け止める力量の無さに対する悔しさも相まって、もう逃げてしまいたかった。これ以上彼に圧倒されるだけでは自分に絶望してしまう。そう思った。

 

それでも。幕は上がる。幕が上がるなら、観に行く責任がある。ほんとうは観劇に責任など無いけれど、この舞台を見届けることは責任だと感じた。逃げてしまっては、これからもこの舞台から逃げた事実だけがひたすら着いてくることになるから。彼は逃げてないのに、私だけ逃げてしまうのはどうしても嫌だった。次の日も観に行く覚悟は、私は彼に多少の劣等感を感じていることの実感でもあった。

 

電車に揺られ、渋谷駅。歩いて10分弱。

今日は怖くありませんように

今日は力を受け取れますように

願いながら、シアターコクーンへ向かうときの気持ちはどうにも言葉にし難い。正直、今後彼を見に行く日にこんな思いを抱きながら劇場に向かうことは、もうしたくないとすら思った。

 

2日目の幕が降り、自分の手の中に残っている感情の中には昨日のような「気持ちが悪い」「怖い」という気持ちは無くなり、代わりに「強さ」を受け取ることが出来た。決して、慣れた訳では無い。カーテンコールで今にも意識を手放してしまいそうな自分の好きなアイドルを見て、慣れるなんて出来るはずがない。それでも受け取る感情に変化があったのは、昨日より何倍も何倍も大きく、強く、踊り舞う彼の姿があったからだ。

 

信じられない話かもしれないが、2219時公演を終えてから24時間も経っていない2314時公演の彼は別人なのだ。この言葉しか使えなくてどうにも悔しいのだが、本当に本当に 強く なっている。一日にも満たない時間で、まるで苗木から大樹にまで成長しているようで。24日も25日も、ずっとずっとその繰り返しで、決して昨日が未熟だった訳では無いのに、毎日毎日あたらしい。進化が止まらない。どこまで強くなってしまうの、大きくなってしまうの。その果てしなさを見せつけられながら、作品の世界観を自分なりに掴み、群舞の美しさや演奏の熱がひたすらに訴えかけえくる空間。いつの間にか、初日に抱いた感情は拾えなくなっていた。

 

326日、大千穐楽の日。

私はまた、少しの不安を抱いてシアターコクーンに向かっていた。その不安の理由はTwitterなどで見聞きする様々な舞台の千穐楽のレポートを見る限りでの、彼の千穐楽の出し切り方だ。かなりの確率で「しんどそうでした」というレポートを見かける。彼なりの出し切り方で、作品への誠意なのだろう。そうして出し切ることで次の作品への切り替えになるのかもしれないし、彼はプロなのだからそのまま燃え尽きてしまうことは無いと信頼しているので、特に大きな心配はしないようにしている。もちろん体調万全で終えられるのが良いとは思うけれども、私は彼の誠意を真っ直ぐに受け止めたいと考えている。

 

それでもこの舞台の千穐楽はとにかく不安だった。本人が「人生最大の壁」と言うこの舞台の千穐楽。カーテンコールではもう彼の姿を見られない覚悟をしていたし、見られたとしても、見るのも苦しい姿になっていることだろうと予想していた。

 

それなのに、彼は、織山尚大さんは、誰の力を借りることもなく再び舞台に姿を現した。そして笑っていた。昨日も一昨日も、あんなに苦しそうだったのに、立つのもやっとだったのに、信じられなかった。アイドルとして舞台に立つ時と同じような笑顔で客席を愛おしそうに見つめ、何度も何度もお辞儀をする。客席はオールスタンディングオベーションで、何度も何度も歓声が上がる。豪雨でも降っているかのような大きな拍手がいつまでも止まらない。

 

作演出の黒田さんを舞台に上げ、ひとりひとりとハグをする光景は そのもので、目に見えて愛情の受け渡しが行われていた。あんなに美しい時間が流れるシアターコクーンは、どんなに幸せだろうか。彼は涙する黒田さんを笑顔で見つめていた。ただただ無邪気で、少年らしさの感じられる、優しくて、大好きなあの笑顔だった。

 

正直、こんな終わりを迎えられると思っていなかった。幸せと、愛情と、豊かさを抱えながら乗り込んだ電車の中で、ひたすらに幸せを噛み締めていた。彼は本当に強くて、強すぎて。何度かその光景を思い出しては、少し笑ってしまうくらいだった。本当に、どこまでいってしまうのだろう。

 

9公演を素晴らしく踊り切った織山尚大は、またアイドルとして、舞台の上で笑顔で歌いながら踊り、幸せを振りまく存在へと戻っていく。

 

ここからは私の単なる願い。

どうか、少年忍者の皆さんには織山さんを「アイドル」として帰ることの出来る場所を守って欲しいと心から思っている。

ドゥエンデ(= 神秘的で言葉では言い表せない魔力、神がかった瞬間)を巻き起こしている瞬間を目の当たりにしたことで、織山さんのことをまた更に「神様」や「天才」だと称する人が増えるかもしれない。それぞれに抱いた感情の中には悔しさもあるだろうし、織山さんのことを越えられない、高い存在の人だと思う人も居ることだろう。

でも、織山さんがここまで表現に貪欲になることが出来る、がむしゃらに挑むことができるのは、少年忍者という帰る場所があるからだと考えている。「アイドル」として生きることの出来る場所があるからこそ、どこまでも突き進める。

だから織山さんが「アイドル」として帰る場所にいる人達が、織山さんのことを「神様」や「天才」として扱ってしまうようになれば、「アイドル」に戻る場所が無くなってしまうようで怖い。アイドルの織山尚大を守ることが出来るのは、帰る場所に居るアイドルの皆さんだけ、私の大好きで、愛おしいアイドルを、どうか「アイドル」として 守って欲しい。本当に本当に勝手な心配と願い。

 

最後のカーテンコールで笑っている彼の顔を見て、どうしてこんなにも笑顔が似合うのだろうと切なさ近い感情を抱いた。やはり彼はアイドルなのだ。しばらくゆっくり休んで、少し落ち着いたら、アイドルに戻ってきて。この壁を乗り越えたアイドルはどんなに素敵だろうと予想するだけで心は弾む。弾んだ心に、彼はアイドルだと実感する。